鉄道院(国鉄の前身)は、開業以来幹線の建設を目的としていましたが、明治43年4月「軽便鉄道法」の公布により、局地的な輸送を担う軽便鉄道の建設を開始しました。明治44年度には、黒石線(青森県)、倉吉線(鳥取県)、湧別線(北海道)、岩内線(北海道)、そして真岡線の5線区を着工しました。その中で、真岡線(下館〜真岡間)は、明治45年4月1日、一番最初に開業を迎えました。つまり、真岡線は、国鉄ローカル線の第1号なのです。
軽便鉄道法の制定により全国各地で軽便鉄道建設の出願がブームとなりましたが、沿線地域からの資本調達は難しいため、政治的に運動し、国有鉄道として鉄道を建設するという方法が多くとられました。しかし最初に開業した真岡線がそうであったかどうかは不明です。
『日本鉄道史』は、「鉄道院ハ之カ建設ヲ計画シ同年五月下館真岡間十マイル二十チェーンノ実測ニ着手シ十月工事ヲ起シ四十五年四月一日開通シ真岡七井間七哩三十七鎖ハ同年五月実測ニ着手シ十二月工事ヲ起シ大正二年七月十一日開通セリ、全線ヲ通シテ勾配百十分野一ヲ最急トス、之カ工事ハ東部鉄道管理局ニ於テ主管シタリ」とだけ伝えています。
最初に下館〜真岡間の鉄道敷設の出願をしたのは、下館の商人たちでした。明治28年、間々田惣助ら65名の発起人は、取手を起点とし、水海道、下妻を経て、下館に至り、そこから久下田を経て宇都宮に至る「常総鉄道」の建設を計画しました。明治29年8月に創立総会を開き、翌30年には、免許状が交付されました。しかし、経済不況の影響を受け、株金の払込が達成できずに、不登記の理由で免許を失効してしまいました。
その後、川島より久下田、真岡を経て大子に至る「常野鉄道」、川島から真岡に至る「東野鉄道」、東京から野田、水海道に至り、下妻、下館、真岡、烏山、黒羽、黒磯に達する「東京鉄道」など、鬼怒川の河川交通に代わる交通手段としていくつもの鉄道が計画されましたが、いずれも開業を迎えることはできませんでした。
真岡線は、これらの私鉄の計画を継承する形で、明治45年4月1日、鉄道院の「真岡軽便線」として開業したのです。
鉄道院が当初「真岡軽便線」として計画したのは、下館〜七井間でした。明治45年4月1日に下館〜真岡間が開業し、大正2年7月11日に真岡〜七井間が追って開業し、全線開通となりました。
その後、烏山町から真岡軽便線の烏山への延長が陳情され、大正5年12月衆議院において、七井から烏山を経て大子に至る軽便鉄道敷設が採択され、七井から北へ路線延長されることになりました。これに対し、路線からはずれる茂木町から同鉄道の茂木経由の請願が提出され、烏山と茂木で真岡線の誘致合戦が展開されました。
この論議で揺れていた大正7年に衆議院選挙があり、当時憲政会の地盤であった茂木町に対し、政友会から真岡軽便線の茂木延長に協力するという話しがありました。そして、投票の結果、政友会の議員が当選し、翌8年に政友会の勢力により、七井〜茂木間が鉄道敷設予定線になり、大正9年12月5日に、七井〜茂木間が開業し、真岡軽便線に編入されました
その後昭和12年に、長倉までの延長計画が着工されましたが、戦況の悪化により、資材の撤去が行われ、現在に至っています。今でも、茂木〜河井間には、路盤、橋梁等が残されています。
真岡線は、開業以来下館市と芳賀郡を結ぶ交通機関として、地域の産業、経済、文化の発展に寄与し、また沿線住民の足として地域に親しまれてきました。しかし、モータリゼーションをはじめとする社会環境の変化に伴い、輸送人員は徐々に減少し、昭和35年国鉄関東支社評議委員会において真岡線廃止の決定がなされました。これに対し、真岡線廃止反対期成同盟会を結成し存続運動を続けてきましたが、昭和57年の輸送密度は、1461人にまで減少し、同年国鉄再建促進特別措置法に基づく第二次特定地方交通線に選定され、昭和59年6月廃止路線として承認されました。
しかし、真岡線を利用する高校生が多数おり、定時性を有する鉄道は、これら生徒の唯一の交通手段となっています。また沿線の工業団地、住宅団地の建設等に伴い、その重要性が高まってくると考えられます。このような状況から、昭和62年1月に開催された第六回真岡線特定地方交通線対策協議会において、栃木県、沿線市町村、民間企業等の出資による第三セクター方式により、鉄道路線として存続させることが決定しました。そして、昭和63年4月11日、真岡線は新たに「真岡鐵道株式会社」として生まれ変わりました。
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